2009年7月23日木曜日

喜捨

よくポジティブだねって言われます
自分としてはそうでは無いと思うのですが・・・

今いる自分の現状はとても幸せで
贅沢なことをしなければ生活もできて
お客さんに恵まれ
知人友人にも恵まれ

ただ偶に
陽と陰があるならば
光と影があるならば
幸せと不幸は対なのかしら
と思い更けて
この幸せが崩れ落ちたらどうしよう
って怖くなり
あえて転んでみたりしてみたり

なんて話をある方に話したら
仏教の教えに「喜捨」ってものがあると教えて頂きました


き‐しゃ【喜捨】
[名](スル)進んで寺社、僧や貧者に金品を寄付すること。「托鉢僧に―する」

辞書の説明はここまででした
さらに調べてみようっかな

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2600年ほど前にお釈迦様は弟子たちに対して、「托鉢に行きなさい」と薦めた。
 そして、「托鉢は貧しい人のところに行きなさい」と言った。
 弟子たちは「貧しい人のところには行きなさんな」とお釈迦様が言い間違えたのだと思い、問い直した。
 しかし、お釈迦様は「違う。お金を持っている人のところにはいかなくていい。貧しい人のところに行って喜捨を求めてきなさい」と再び念を押したそうだ。
 人々の幸せをたえず願っているお釈迦さまの教えである。「喜捨」は、喜捨をするという行為がその人の人生を幸せに、豊かにするために設けられているものなのだ。
 お釈迦様は弟子たちにこう説明した。
 「お金持ちは喜捨ができる。しかし、貧しい者たちは喜捨するという大切なことから遠く離れ、苦しみの世界から抜け出せずにいる。貧しい人々を救い出すのです」
 だから、昔から「喜捨」をした人の方が、「ありがとう」と言って立ち去るのが正しいのである。
 もちろん、喜捨の多寡(多い少ない)は自分が困らない範囲中での話である。
 今は年配の方もそうしたことをご存じなく、「お礼も言わないクソ坊主」と立腹する人がいるそうだが、「喜捨」は救いへの導きのひとつの方法である。


お寺や神社にお参りする時、お賽銭をあげてから拝みますが、お賽銭は祈願に対する代金ではありません。 お参りをした後、後日何かの時の費用に少しですがお役に立てて下さいという意味でお賽銭をあげるのです。
お賽銭箱のところに「喜捨(喜んで捨てる)」とあって、疑問に思われたのでしょう。 「捨」とは慈・悲・喜・捨の四無量心の捨無量心で、執着しないということです。 「捨」はお布施のことなのです。 お布施というと、すぐに「あげること」と考えられますが、本当は「させていただく」という感謝の行為が「施」なのです。 「施」は「むさぼること」で、「欲しがらないこと」「こだわらないこと」です。 私たちが要らなくなった物を捨てる時、その物に心を残して捨てますか? どうでもいいと思うから捨てるのです。 即ち、その物に対して「執着する心」がないから捨てるのです。
「喜捨」は「浄施」とも言います。 「ありがとうございました。 どうぞ何かの折にお役立て下さい」という心であげるのがお賽銭です。 喜んで供えさせてもらうので「喜捨」というのです。
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ふーむ
わざと転ばなくってもイイんだ

ちょっと違うかもしれませんが
「喜捨」する対象が仏様でなくとも
金儲けじゃない投資は「喜捨」になりそうな・・・

ってグルグル考え始めました
気づいたら2時間経過っ!!
あーエコ検定の勉強しなくちゃいけないのにー


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